難物古典も自在に操る「新星」が続々登場。落語界の新潮流を見逃すなかれ。
2008年4月号 LIFE
落語ブームは衰えを知らない。
東京都内の定席、大阪の「繁昌亭」も大入り続き。ホール落語会、地方での「地域寄席」も活発だ。人気噺家のチケットは発売当日に売り切れ。少なくとも5年前には考えられない現象である。結構な話ではあるが、ここへ来て、当の噺家たちから、また別な戸惑いも聞こえてくる。
ひとつは、ブームがいつまで続くのか、また、去った後の反動の大きさへの恐怖。そして、このブームを作り出した要因が何であったか、の検証がなされていないことである。これが分かればブーム後の対処のしようもある、というものである。
昔から、不景気な時に落語が元気になる、といわれてきた。確かに、落語界が活況を呈し始めたのは、バブルが崩壊して、景気が落ち込んだ時期と一致している。戦後直ぐのブーム時は、敗戦の混乱の時期であった。
現況はどうか――。社会や政治、経済界に蔓延する閉塞感が落語に人々を駆り立てているのでは、という席亭(寄席の経営者)もいる。「先々の希望も目的も持てない世の中、落語でも聞いて、憂さを晴らそうか」ということらしい。
こうした社会背景のほかに、落語自体の変質・変革も影響している。時代に「沿った」ともいえるし、「流された」ともいえる。結果的にそれが、若者や女性にも受ける落語となり、通家・好事家と初心者との間に何となく漂っていた溝が埋まったのである。
従来、落語は「古典落語」と「新作(創作)落語」、「滑稽噺」または「爆笑落語」と「人情噺」といった大別をしてきた。噺家自身も、その仕分けに従って、師匠を選び、修業をし、高座に掛けてきた。
それが、変わった。崩壊したのである。
強いて名付けると、本丸である古典落語が「純古典」と「面白古典」に細分化されてきた。
「純」は、従来どおりの伝統を重んじた、型の決まった噺を引き継いだネタである。
一方、「面白」の方は、伝統や型にとらわれない、形の崩れもさほど気にかけず、噺家自身の工夫や味付けで古典落語を展開してゆく。古典を改竄する、というよりも、「入れごと」や「ギャグ」「くすぐり」で硬い古典を軟らかくほぐして「食い付き」を良くした。当然、笑いを取ることに重きを置いた口演となる。
東京なら前者が、桂歌丸、入船亭扇橋、柳家小三治、柳家小満ん、柳家さん喬、柳家権太楼、瀧川鯉昇、林家正蔵、入船亭扇遊、金原亭馬生、柳亭市馬、桂平治、橘家円太郎、古今亭菊之丞、柳家三三、隅田川馬石らであり、後者には、橘家円蔵、三遊亭小遊三、三遊亭楽太郎、立川志の輔、春風亭小朝、春風亭昇太、林家たい平、彦いちらを挙げることができる。
入門当初は新作派としてスタートした歌丸は、古典派に転向するや、埋もれた噺を掘り起こす作業に着手した。「毛氈(もうせん)芝居」「おすわどん」「鍋草履」などを世に出した功績者でもある。テレビの寄席番組「笑点」での軽妙なやり取りとはひと味違った噺家像を見せた。
その後は、明治の名人・三遊亭円朝の作品に取り組み、代表作である「牡丹燈籠」「真景累ケ淵」を通しで演じるなど、この道の第一人者として追随を許さない。ブームによる噺家の甘え、それによる落語の形の荒れ(崩れ)を一番心配している一人でもある。
最近、扇橋の飄々とした高座姿に憧れている若い女性が多いそうだ。古風でいかにも噺家然とした風貌が「可愛らしい」という。本人も満更でなく、幽かな色気を漂わせる。
長い枕を振りながら、自分の世界に引っ張り込んでゆく小三治の魅力は、やはり形を崩さない行儀のいい滑稽噺だろう。「滑稽噺の柳家」の伝統をひたすら守って、人情噺には見向きもしない。
名人、文楽の薫陶を受けた小満んの正統ぶり、丁寧に古典を紐解いてゆくさん喬、礼儀正しい扇遊、歳に似ず、古風な雰囲気を漂わす鯉昇、若手の期待株三三などなど、この「純古典」派は、多士済々、依然として一大勢力である。
「面白」派の元老は円蔵。円鏡時代、テレビやラジオでの露出度はハンパではなかった。毎日のように電波に乗って声が聞こえてきた。あの軽いノリで連発されたしゃれやギャグは、現在の高座でも威力を発揮している。老若男女、誰からも好かれるキャラクターなのである。
「長屋もの」を中心とする古典を持ち前の軽さで描いてゆく小遊三は、やはり「笑点」の顔そのままの愛敬が売りもの。
今や創作落語の近代古典、とまでいわれる「悲しみにてやんでぇ」や「ストレスの海」などを持って、高座で転がったり、客席にカメラのレンズを向けたりする昇太の破天荒ぶりは、時折掛ける古典にも登場する。「壺算」での、買い物風景や客の人物描写に独特の匂いを発して現れる。爆笑を取りながらも、なお古典の香りと形を失わないという、魅力に満ちた芸である。
そんな調子で「寝床」「時そば」「愛宕山」などの難物古典に気軽に挑むのが昇太流なのである。
こうした一群のほかに、古典と新作を見事に使い分ける芸人たちがいる。見方によっては、今のブームを作ったのはこの人たちかも知れない。
「二兎を追う」ことは落語界のタブーだった。昔気質の師匠連が生きていたら、大目玉だったろう。その大看板たちが、近年相次いで亡くなり、事情が変わった。若手が、伸び伸びと両者の垣根を越えている。新作で「客寄せ」をして、初心者に敬遠されがちな古典を差し出して、落語の深い味わいを知ってもらう算段だ。かつて、市川猿之助のスーパー歌舞伎が初心の客を呼び寄せ、現在の大歌舞伎人気に結びつけたのとよく似ている。
その代表が柳家喬太郎である。前座、二つ目のころから古典と新作の両刀遣いだったが、その両方をモノにした才能、センスは見事である。
最近は、新作「純情日記横浜編」が受けているが、大当たりの「母恋いくらげ」はじめ、自作の新作落語の数は膨大である。そして、古典の大ネタの数々を苦もなくこなしてゆく。それも、一級品としてのお墨付きである。
たい平の明るい現代性、柳家花緑、立川志らく、談春らの奔放な勢いもこのグループの牽引力だ。古典・新作の境界を自由自在に行き来しながら、自分流の「落語の場」を作っている。
そこには古風や伝統が幅を利かす「寄席」ではなく、若者好みの明るく近代的な話芸が楽しめる「スペース」があるだけである。
落語ブームを斜めに眺めていると、意外やこれから落語がたどるであろう道筋が見えてくるようだ。