あれこれ問題を指摘して引き上げに水を差そうというなら、本末転倒だ。
2024年12月号
BUSINESS
by 滝田洋一(名古屋外国語大学特任教授)
手取りを増やす。魂の訴え!(「玉木チャンネル」より)
国民民主党の打ち出した「103万円の壁」の突破が、政界を揺さぶっている。年収が103万円を超えると所得税の負担が生じる。そんな年収の壁に、にわかにスポットライトが当たったからだ。国民生活に直結したテーマの設定は、玉木雄一郎代表の独壇場になりつつある。
「手取りを増やす」。総選挙で訴え続けた国民民主の公約は、所得税が生じることになる年収の引き上げ。現在の103万円を178万円に引き上げるというものだ。
基礎控除と給与所得控除、つまり税のかからない部分の金額を引き上げれば、働く人の税負担はまんべんなく減る。所得いかんにかかわらず、手取りが増える。同党が示した試算(表1)によれば、減税額は年収200万円だと8.6万円、同300万円だと11.3万円となる。
控除(非課税所得)の引き上げは低所得者向けと思われがちだが、玉木代表は「学生アルバイトやパートの皆さんだけに恩恵のある政策ではありません」と強調する。
玉木氏がXで例に挙げたのは「例えば、年収500万円の人」。その場合、「年間13.2万円の減税効果」があるというのだ。国税庁によれば、2023年の平均給与は459.5万円。働く人のボリュームゾーンを意識した減税のアピールである。
巧みである。というのも、多くの政党が訴えたのは低所得層への給付(交付金)の充実であり、所得格差の是正だったからだ。石破茂首相が自著『保守政治家』で強調したのも「セーフティネット強化」。「格差の縮小こそが経済の刺激、活性化に繋がる」との主張だった。
石破氏の自民党や野田佳彦代表の立憲民主党は、普通に働く人たちの痛税感とズレが生じていた。石破氏が所得税や法人税に関して「負担能力のある方」に相応の負担を主張し、野田氏は所得税の累進性の強化や法人税の応分の負担を訴えた。そこには減税はない。財政規律を重んじるのは、一見すると責任ある政治家のようにみえるが、国民の所得が増えなくては経済が回らないという、肝心な視点が忘れられてはいまいか。論より証拠。家計の手取り(可処分所得)の推移をみてみよう。
23年度の雇用者報酬(給与所得)は賃上げが進んだおかげで300兆円台に乗せ、財産所得(利子・配当収入)も株高を追い風に28兆円台と過去最高に。その一方で、実際の手取りである可処分所得は317兆円と20年度の319兆円を下回っている(表2)。
20年度はコロナ対策で1人当たり10万円が給付され、そのぶん可処分所得が押し上げられたという面があるとはいえ、給与増が手取りの増加に直結していない。ほかでもない。表の太字の部分、経常税と社会保障負担の増加で、給与所得の増加分が帳消しになっているのだ。
ここまでは物価変動を抜きにした名目ベースの話。足元の物価上昇分を差し引いた実質ベースでみると、23年度の可処分所得は290兆円あまりで、20年度を24兆円も下回っている。これでは有権者の怒りの矛先が政権与党に向かうのもうなずける。
可処分所得が減少したままでは、経済のエンジンである個人消費に元気がでない。生活が苦しいのは低所得者であるとして、いきおい給付による景気対策が繰り返されることになる。ここで興味深いのは岸田文雄政権の定額減税へのメディアによる批判の大合唱である。
バラマキだというのである。石破氏も『保守政治家』のなかで、こうした批判に同調したが、可処分所得を増やすという視点は抜け落ちていた。問題は政策を国民に伝える発信力。岸田前首相に欠けていた発信力を、玉木代表はフルに発揮し、有権者のハートに刺さった。
自民、公明の連立与党が衆院で過半数を大きく割り込むなか、石破首相の率いる自民党は「103万円の壁」打破の要求を受け入れざるを得まい。25年度税制改正の議論でも、「103万円の壁」問題が最重要テーマになるのは必至である。
もちろん出る杭は打たれるのたとえの通り、国民民主の提案には様々な批判が登場している。その一つは、所得の高い人ほど減税額が大きくなる、という批判。高所得者優遇、格差拡大だと共産党が批判ののろしを上げたが、同党には思わぬブーメランが返ってきた。
14年の選挙公約で同党自身が所得控除の引き上げを主張していたのだ。「『所得控除は高額所得者ほど減税額が大きくなり、金持ち優遇だ』という議論がありますが、これは誤りです」とまで言い切っている。SNSで指摘を受けた同党は慌ててホームページから削除した。
「103万円の壁」問題については、所得が壁を越えたとしても、超えた分にしか課税されないのだから、大した話ではない――といった批判も現れた。立民の一言居士が発信しだしたところ、今度は税理士がそうした批判の盲点を突いてみせた。
例えば、学生バイトは年収が103万円を超えると特定扶養控除がなくなり、親の税負担が増えてしまう。学生自身の税負担は大したことがなくても、親の負担が一気に増えると家計全体の税負担はドンと増す、というのだ。これもSNSを舞台とした議論の展開である。
一昔前だったら、財務省の「ご説明資料」を基にメディアや有力政党の間で、国民民主の提案に対する包囲網が敷かれていただろう。だが今はSNSの時代。税理士など実務の専門家が次々と加勢してきた。
肝心の財源はどうか。国民民主の公約をそのまま実現すれば、税収は7.6兆円減少する。主要メディアが掲げるのは、財務省によるこの試算である。玉木代表は次のように税収の上振れを指摘しているのだが、メディアがきちんと報道しているとは言い難い(表3)。
①予算計上額の徹底した見直しと、税収見積もりの精度を高めれば、7兆円程度の減収への対応は十分可能。…要するに、当初予算の税収見積もりに比べて決算を締めてみると、税収が上振れしているではないか。
②7兆円分、国民の「手取り」が増えれば、消費も活性化し、企業業績も上がり法人税収も消費税収も増える。…これは、米国の共和党流の経済成長による財政再建の考え方だ。
もちろん、これまでの税収が上振れしたからといって、今後はどうか分からない。内閣府は税収の基になる名目GDP(国内総生産)について、23年度 596.5兆円→24年度 615兆円→25年度 631兆円との見通しを示している(11月1日時点の最新試算)。
名目GDPは実額で24年度が18.5兆円増、25年度は16兆円増となる勘定だ。経済規模が拡大すれば、税収もそれに応じて拡大する。議論はあるところだが、税収が拡大するなら、その一部を国民に還元することはバラマキとは言えないだろう。
壁については社会保険料をめぐる「106万円の壁」や「130万円の壁」もある。そちらの負担の方が大きいので、手を付けるなら社会保険だ、との指摘もある。ただ大問題を指摘して、「103万円の壁」の引き上げの機運に水を差そうというなら、本末転倒だろう。